|
|
今から約150年前、ひとりの外国人により日本は大きな扉を開けることになった。
彼の名前はアメリカ総領事ハリス。
彼の申し入れを聞き入れた江戸幕府は横浜村に港を作ります。1859年(安政6年)6月2日横浜開港、それはまさしく日本の夜明けでもありました。 |
|
|
開港により外国からの新しい文化や技術、品物が横浜港へ持ち込まれて、それを横浜の人々は生活に吸収しながら日本全国へと発信していきました。
鉄道や乗り合い馬車・鉄橋・電信や新聞をはじめ、石鹸・牛乳・ビール・アイスクリームなど様々なものが横浜発祥として伝わっていきます。
|
この横浜開港から約10年後、日本人の手によって人力車が発案されました。時は明治2年のこと。ちょうど横浜ー新橋間に鉄道が開通される3年ほど前の話です。
それまでの代表的な交通機関であった駕籠に代わり、人力車は瞬く間に普及していきます。
文明開化の象徴とも言える乗り物でありました。
|
|
|
世界貿易の中心になった横浜には多くの外国人が居住し、洋風の建物が立ち並ぶ独特の街に作り上げ、明治22年 大桟橋が完成したことで大きな船も停泊できるようになり、さらに多くの異国文化が次々と上陸してきます。その面影は現在の横浜のいたるところで感じることができます。
残念ながら関東大震災や横浜空襲により多くのものを失いはしましたが、汽車道や赤レンガ倉庫、旧イギリス7番館やキング・ジャック・クィーンの塔・・・・ ひとつひとつに流れた時を感じます。
|
明治29年をピークに人力車もその交通手段を路面電車や大正期のタクシーなどに明け渡し衰退の道をたどりますが、文明開化から後、この激動の時代を生きた人々のさまざまな想いや夢を乗せて人力車は走り抜けてきました。 |
|
今ふりかえるとすっかりセピア色に染まってしまった当時を、 その当時と変わらない潮風を受けながら
私共の人力車で感じていただければ幸いです
|
渇。濱おもてなし家 |